(旧)国際短波放送情報

海外からの日本語短波放送を中心に、メディア関連の様々な話題を紹介します

カテゴリ: 沖縄への旅

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沖縄旅行の最後の夜、ホテル近くにある、豚しゃぶの店に出掛けた。
折角訪ねた専門店なので、コース料理を頼もうとしたが、ビールなども飲むことを
考えれば、コース料理では量が多過ぎるように思われた。
「老夫婦ゆえ、食べきれそうにないなあ」と言うと、店員は「それでは、少なめの
セット料理を一人分をとって、二人で食べては如何ですか」とアドバイスしてくれた。
「一人分の注文でも良いのですか」と念を押すと、「構いませんよ」という。
こんな、老人に優しい店に入ったのは、初めての経験であり、店員の態度もテキパキ
していて、すっかり気分を良くした。

先ず、前菜とサラダが出てきた。
前菜は、あぐー豚、島豚、山原豚の3種盛り合わせ、塩味である。
サラダは、レタスに生ハムがのっている。
続いて、ソーセージの盛り合わせ、メンチカツ、豚肉の角煮が出てきた。

メインのしゃぶしゃぶの鍋が出てきた。
出汁は、昆布味と豆乳味の2種類である。
味付けは、「シークワーサーぽん酢」と「塩ごまダレ」である。
「大根おろし」や「あっちゃんの紅塩」で食べるのも美味しい。

沖縄最後の夜は、豚しゃぶしゃぶと、冷えたオリオンビールと泡盛で、
大満足、大満足、である。

沖縄の人々の、心の温かさに触れ、美味しい食べ物に出会うことが出来、
実り多い旅となった。
いつか、再び、沖縄を訪ねてみたいと想う、一週間であった。
                                     (了)
(「沖縄への旅」一覧 )
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◆ 拙い沖縄リポートにお付き合いいただき、有難うございました。
 様々なコメントをお寄せくださった皆さんに、改めてお礼申し上げます。

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沖縄県では2月24日、「普天間飛行場の代替施設として国が名護市辺野古に計画して
いる米軍基地建設のための埋め立てについて」の賛否を問う県民投票が行われた。

元山仁士郎さんは、今回の県民投票の推進役の一人である。
2年前、東京で開かれた「日米地位協定を読む会」で、初めて彼と出会ったが、大学院生
の彼は自己紹介の中で、「私は沖縄で生まれ、育った。基地は日常の風景で、何の疑問も
持たなかった。ところが、東京に出てきて、友だちから基地のことを尋ねられても、何も
答えられない。自分で勉強しなければならないと思い始めている」と物静かに語った。

研究会で、彼と直接言葉を交わしたことはなかったが、この若者の動きには大きな関心を
持って注視してきた。
その彼が、大学を休学して、沖縄に戻り、県民投票の実施を提起したのである。
沖縄が生んだ、一人の青年の想いが、遂に沖縄を動かしたのである。

当初、県民投票は「二択」で行われることになったが、様々な理由により投票事務に協力
できないとする自治体が現れたことから、彼は「三択」で行うことも已むなしと関係者に
進言し、最終的には、そこに落ち着いた。
私自身は、「三択ではダメだ」と考えていた。住民投票を実施したことのある首長経験者や
や専門家が、「住民投票は二択で」と主張していたこともあり、そのように考えていた。
例えば、産業廃棄物処分場建設を問う住民投票を実施した経験を持つ、岐阜県御嵩町の
柳川喜郎・前町長は、次のように主張していた。
https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019012000002.html

しかし、辺野古を訪ねて、多くの人たちと話をする機会があり、その中で、私の考えは余り
にも定型的過ぎた、沖縄が持つ複雑な状況を理解していなかったとの想いを強くし、反省した。
県民投票の推進役である元山さんは、否、彼だけでなく、沖縄県民の多くは、争いごとを
好まず、皆んなで仲良く生きて行こうという、ある種の「知恵」を働かせたのではないか、
沖縄県民は、この県民投票で問う「沖縄の基地問題」を、沖縄県だけのこととせずに、日本
全体のこととして考えてもらう契機にしたいと考えたのではないかと思われた。

「二者択一」の投票では、賛成、反対の何れが多数をとっても、沖縄分断の傷口をますます
広げるだけで、癒えることのない爪痕を残すと、沖縄県の人々は考えたのではないか、それは
沖縄県の人々が考える「平和」とは相いれず、耐え難いことだと考えたのではないか、そんな
想いを強くした。

県民投票の結果は、「新基地反対72%」であった。
テレビでは、開票速報を流していたが、投票結果の大勢が判明すると、賛成、反対、それぞれの
主張に立つ関係者へのインタビューが始まった。画面を見る限り、両者ともに、笑顔は見えない。
事の重大さ、深刻さを感じているように見えた。自民党沖縄県連の関係者でも、「辺野古の基地
建設に賛成か反対かと問われれば、私だって、反対だ。沖縄で、即座に賛成と言う人は少ない」と
答えていた。これが、率直な「沖縄の声」なのだと思われた。

元山仁士郎さんは、最近、次のように呼び掛けている。彼の声に、素直に耳を傾けたいと思う。
  ヤマト・本土から思いを寄せてくれるみなさん。
  沖縄に来なくても、それぞれの場所でできることはある。
  「沖縄のため」ではなく、民主主義や地方自治、人権、自由、美しい自然、あなたの故郷、
  将来の世代のために声をあげてほしい。
  自分たちのこととして、考えてほしい。

  あなたの住むこの国は、まち・地域はどうあるべきか。
  過去や痛みをわかってくれる、
  話を真剣にきいて一緒に悩んでくれる、
  一緒に行動してくれる人を選んでいこう。
  そういう人ならきっと沖縄のこともわかってくれるはず。
  少しずつかもしれないけど、誰かにとって自分もそういう人になりたい

沖縄で、そして、辺野古で、今、公然と語られていることで、将来、必ず全国で語られる
時が来るであろうと思われることが、幾つかある。
◆ 辺野古に新基地ができても、普天間飛行場は返還されない。
◆ 新基地の建設には、深さ90mの軟弱地盤を埋め立てる必要があるが、現在の計画では
 それが70mであることを前提としているので、何れ、計画の変更手続きをしなければ
 ならなくなる。
◆ 仮に、現在計画されている「埋め立て工事」が「完成」しても、先の関西国際空港の
 大規模冠水のような被害を蒙らないように、台風や満潮・高潮などに備えるためには、
 更に10mの嵩上げか防潮堤の建設が必要であり、その計画変更手続きが求められる。
◆ 新基地周辺の自然環境を考えれば、米国の環境保護基準に照らして、新基地建設のための
 開発は認められないはずである。辺野古の自然環境保護について、米国内で議論が起きる
 可能性がある。
◆ 新基地は、たとえ完成したとしても、軟弱地盤に建設されていることから、何よりもまず、
 米軍の軍用機の滑走路としての耐久強度が米軍の定める基準をクリアできるとは考えられず、
 結局は米軍は使用せず、最終的には、自衛隊の基地として使用することになる可能性が高い。
 そうなれば、普天間飛行場の返還は、絶望的となる。

この予想が当たるのかどうか、これから数年以内に答えが出るものと思われる。
否、最後の姿を見るのは、数十年後になるかも知れない。今後の展開を注目していきたい。

(「沖縄への旅」一覧 )
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辺野古から那覇市内に戻ると、県庁向かい側にある商業ビル広場では、県民投票の
広報イベントが開かれていて、玉城デニー知事が投票を呼び掛ける挨拶をするという
ので、その姿を一目見ようと思い、登壇するのを待っていた。

そこに、地元紙の記者が声を掛けてきた。
「観光客で、投票権もないので・・・」と断ると、「県外の人も、感想を聞かせてほしい」
というので、インタビューに答えることにし、「東京では、沖縄県、特に辺野古に関する
報道が少ないので、現地に足を運び、自分の目で実情を確認したいと思った。県民投票
の実際の状況もみたかった」などと話した。

数多いインタビューの一つに過ぎないだろうから、記者が送稿してもボツになるだろうと
思っていたので、翌日の紙面を開いて、ビックリした。
社会面トップには「きょう県民投票」「悩み・関心 思い多様」「時期合わせた観光客も」
の見出しが載り、前日の広報イベントの模様を報じていて、その記事の最後にわれわれの
コメントが名前入りで載っている。続けて、神奈川県から来た女性の声も報じている。

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那覇から辺野古まで往復する間、車窓からは「軍用地」の売買を仲介する不動産
会社の看板を幾つも見た。
沖縄県各地における軍用地の売買については、数年前、テレビの報道番組で視た
記憶があるものの、「そんなことが、本当にあるのか」と半信半疑だった。しかし、
今回、沖縄県を旅して、軍用地の売買がビジネスとして存在している事実を確認
することになった。

ホテルに戻って、新聞を広げると、不動産会社の広告が載っていて、「軍用地」の
売買の仲介だけではなく、買い取りにあたっては無利息の融資を紹介するという
内容に、驚いてしまった。

もちろん、「軍用地」とは米軍基地のことで、基地の相当部分は個人などから、国が
借り上げて借地料を支払っていて、その借地料は沖縄県全域で年間約900億円に
及ぶという説もある。沖縄では「軍用地投資」というビジネスが成立しているという。

先祖代々引き継いできた土地を、表面上は積極的に見えたとしても、おそらくは自ら
の意に反して、米軍の施設用地として提供させられ、揚げ句の果て、その土地を投資
目的とする人たちに買い取られてしまう、その無念さを想うと、心が痛む。

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米軍普天間飛行場の移設に伴う辺野古沿岸部埋め立ての賛否を問う県民投票の日の
前日、辺野古に足を運んだ。東京で見聞きする、新聞・テレビなどの報道だけでは、
実際の状況が十分には判らないと思ったからである。

バス停「第二辺野古」で降りると、100mほど先に「テント」が見えてくる。
ここで、辺野古の海の埋め立てに対して、反対運動、抗議行動を展開している人たちが
勉強会や情報交換を行っている。地元の住民だけではなく、北海道や海外からの支援者も
いる。多くの新聞記者やテレビの撮影クルーの他、フリーランスのジャーナリストも数多く
取材している姿を見た。

この日は、投票日の前日、土曜日にあたり、埋め立て用の土砂の搬入は「お休み」という
ことで、一触即発といった緊張感は感じられない。静かな沖縄の漁村の晴れ上がった空に、
太陽が輝き、眩しい。
テントから300mほど進むと、右手に米軍キャンプ・シュワブの工事車両入口がある。
緑色の工事用シートの前では、10名ほどの警備員が固くガードしている。その前で、
新基地建設に反対する50名近くの人たちが抗議の声をあげている。基地内の小高い丘の
上からは、この人々の動きをビデオ撮影している人がいる。米軍の関係者であろうか。

炎天下、30分ほどの抗議行動は平穏に終わり、人々は「テント」に戻り、持参した昼食を
とる。地元住民の有志が、「豚汁」を作って、遠来の支持者をもてなしている。
テントの前には、県民投票に行こう、県民投票では埋め立てに反対しようと訴える旗が立って
いたが、世話人の人が、「この旗も今日で、お役御免。ほしい人は、持ち帰って良いよ」と
呼びかけている。これをもらって、帰路につく人もいた。

県民投票の翌日、再び、辺野古を訪れた。
国道329号線には数十台のダンプカーが並び、米軍キャンプ・シュワブの工事車両入口が
開くのを待っていた。
入口前では、プラカードを持ち、声を上げて工事に反対する人々を、一人づつ、機動隊員が
4人がかりで彼らの両肩と両足を持って「ごぼう抜き」して、別の場所に連れて行く。
中には、無用な混乱を避けるため、「ごぼう抜き」される前に、自主的に現場を離れて、道路
の反対側に移動して、そこから抗議の声を上げる人もいる。大きな混乱はない。

そんな現場から少し離れたところでは、「基地はいらない」と書いたプラカードを持って道路際
に立ち、国道を走ってくる車に向かって、訴えている人の姿がある。この人たちは、決して大声
を上げることはなく、じっと立ったままである。
辺野古の海の埋め立てに反対し、抗議する形は、人により様々である。

やがて、入口のシャッターが開くと、それを待っていたかのように、土砂を積んだダンプカー
や生コン車両が埋め立て現場に向かって、次から次と入っていった。このような土砂の搬入は、
通常は、午前、昼前、午後と、一日3回行われるのだという。

テントに戻ると、「平和学習」の一環として、辺野古を訪ねた10名ほどの大学生グループが
いた。辺野古で反対運動をしている地元の人たちに、真剣な眼差しで質問を投げかけている。
彼らは、この後、ボートに乗って、辺野古の海の現状を見学するのだという。
長野県から来た大学生もいた。辺野古の現状を確認し、勉強するためにやって来たという。
ブラジルから来た大学院の留学生がいた。ブラジルには沖縄から移民として渡った人が多く、
彼は、その人たちの故郷について調査・研究をしているのだという。
移民と言えば、新基地建設の中止を米ホワイトハウス請願したハワイ在住沖縄県系4世のロブ・
カジワラさんが「県民投票」の前後に辺野古を訪問した他、各地でのトークイベントなどにも
参加していることが、現地では大きく報じられていた。

テントを離れて、埋め立て現場を見渡すことのできる、辺野古の港に向かう。
30分ほど歩く間、道順がわからず、何回も地元の人に尋ねるが、皆んな、親切に教えてくれる。
途中には、埋め立て反対の旗を立て、談笑している地元の人々もいれば、昼下がりの立ち話を
楽しんでいる老壮の女性たちの姿もある。そののどかさは、ここに住む人々の日常風景であろう
と思われた。
ところが、その静けさ、のどかさを破るように、森の向こうから、断続的にパン、パン、パンと
いう音が聞こえてきた。行き交った人に、「あの音は、何ですか」と尋ねると、米軍の射撃訓練の
音だという。自分の方に飛んで来ないか、気になっている様子が窺えた。

港の近くには、反対する人々のテントがある。ここで、埋め立て工事の進捗状況を確認し、現地を
訪れた人たちに、埋め立て工事に関連する、これまでの経緯や現状を解説してくれる。
右手に見える、エメラルド色に輝く辺野古の海の美しさと、左手に見える、埋め立て工事の荒々しさ
のアンバランスに、ため息が出るばかりである。

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沖縄県平和祈念資料館の見学は、2階の「歴史を体験するゾーン」から始まる。
「沖縄戦への道」、「鉄の暴風」、「地獄の戦場」、「沖縄戦の証言」、「太平洋の要石」
などのコーナーがあり、沖縄における「アジア・太平洋戦争」の実相に迫る。

2階の展示の最後にある「むすびのことば」のパネルには、次のように記されている。
これこそが、「沖縄」の全てを物語っているように思われる。
   沖縄戦の実相にふれるたびに
   戦争というものは
   これほど残忍で これほど汚辱にまみれたものはない
   と思うのです
   この なまなましい体験の前では
   いかなる人でも
   戦争を肯定し美化することは できないはずです
  戦争をおこすのは たしかに 人間です
  しかし それ以上に
  戦争を許さない努力のできるのも
  私たち 人間 ではないでしょうか
     戦後このかた 私たちは
     あらゆる戦争を憎み
     平和な島を建設せねば と思いつづけてきました
   これが
   あまりにも大きすぎた代償を払って得た
   ゆずることのできない
   私たちの信条なのです

平和祈念資料館の展示は、過去の惨劇と現在の状況説明だけで、終わることはない。
沖縄だけではなく、日本と世界の「未来」も見据える。
2階から1階に、緩やかなスロープ状の階段を降りると、「未来を展望するゾーン
(子ども・プロセス展示室)」がある。
このゾーンの「いま、せかいで何が」のコーナーでは、なくならない戦争・紛争、
いじめなどの人権問題、むしばまれる地球環境など、世界的な、あるいは、身近な
問題を取り上げ、その原因や、どうしたら解決できるのかなどを考える。
http://www.peace-museum.pref.okinawa.jp/

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「ひめゆりの塔」は、沖縄戦の当時、沖縄陸軍病院第三外科があった豪の跡に建つ慰霊碑である。
慰霊碑に隣接して、ひめゆり平和祈念資料館がある。リーフレットには、「"ひめゆり"の由来」に
ついて、次のように記されている。
  「ひめゆり」は植物の花のひめゆりとは関係ありません。
  沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校は、それぞれに校友会誌がありました。
  一高女は「おとひめ」、師範は「白百合」と名付けられていました。
  両校が併置されることによって、校友会誌もひとつになり、両方の名前の一部(「おとひめ」
  の「ひめ」と、「白百合」の「百合」)を合わせて「姫百合」となりました。
  ひらがなで「ひめゆり」となったのは戦後です。

米軍の沖縄上陸作戦が始まった1945年3月23日深夜、沖縄師範学校女子部・沖縄県立
第一高等女学校の生徒222人、教師18人は、那覇市の南東5キロにある、南風原の沖縄
陸軍病院に配属された。彼女たちにとって、悲劇の始まりであった。
http://www.himeyuri.or.jp/JP/top.html

ひめゆり平和祈念資料館で、様々な展示物を観ていて、驚いたことが幾つかある。
◆ 見学者の中には、誰一人として、館内の様子や展示物を写真に撮っている人がいない。
◆「解散命令と死の彷徨」のコーナーのパネルには、次のように記されている。
   米軍が間近にせまった1945年6月18日夜、「解散命令」が出され、
   生徒たちは米軍の包囲する戦場に放り出されます。
   「解散命令」後の数日間で、100余名のひめゆり学徒が死亡しました。
◆ ここでは、「太平洋戦争」ではなく、「アジア・太平洋戦争」という言葉で表現
 されている。

「ひめゆりの塔」については、少しは知っているつもりでいたが、資料館の展示パネル
に「解散命令」という言葉があり、初めて聞く言葉と思われ、軍と官の命令で動員して
おきながら、戦況逼迫とは言え、責任を放棄して解散を命じたのかと、その非情さに驚き、
涙する。
資料館のリーフレットには、次のように解説されている。
  解散命令を受けて壕を脱出した生徒たちは入る壕もなく、昼間はソテツやアダン
  の茂みに身をひそめながら、攻撃が弱まる夜間になると海岸へと向かいました。
  傷ついた体を引きずりながら逃げる者、負傷した学友を助けて歩いていく者、
  重傷で動けずにその場に倒れる者、砲弾に吹き飛ばされていく者、海岸で大波に
  のまれる者など、行き場を失い、父母の名を叫びながら死んでいく生徒が続出
  しました。生徒たちは米軍に捕まることをもっとも恐れ、手榴弾で自決した人も
  いました。
  6月20日から23日の間には多くの生徒が米軍に収容されましたが、なかには
  2カ月以上も逃げ回り、日本の降伏も知らずに8月22日になって収容された
  生徒もいました。

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旧海軍司令部壕を中心に、海軍壕公園として整備されている。公園は、子供たちの
遊び場、緑の広場、お祭り広場、そして、旧司令部壕と資料館で構成されている。
この公園は、那覇市の南西、豊見城市(とみぐすくし)の小高い丘にあり、東シナ海、
那覇市街、首里城などを展望することができる。琉球王朝時代には、中国や薩摩から
の船の入港を知らせる「火番森(ひばんむい)」が置かれていたという。
http://kaigungou.ocvb.or.jp/top.html

資料館の正面パネルには、旧海軍司令部の司令官であった大田實海軍少将から海軍次官
宛に送った電文が紹介されている。大田司令官はじめ幹部6名は、米軍の猛攻を受けた
ため、1945年6月13日夜半、壕内で最期を遂げたという。
その一週間前、6月6日付とされる電文は、破損と劣化により判読できない部分もあるが、
復元された文面からは、大田司令官の真情が伝わってくる。特に、最後の数行は心を打つ。
  (前半は略)
  勤労奉仕物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只管
  日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ 遂ニ■■■■与ヘ■コトナクシテ 本戦闘ノ
  末期ト沖縄島ハ実情形■■■■■■
  一木一草焦土ト化セン糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ沖縄県民斯ク戦ヘリ
  県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ
パネルには「■は判読できず、意味不明ですが、原文のままとしました」と注記されている。

凄まじい戦争の姿を想像し、飢えを忍び、国のために戦った沖縄の人々の辛苦を想うとき、
大田司令官の悲痛の要請に、戦後、われわれは沖縄県民にどのように応えてきたのか、今、
われわれはどのように応えているのか、改めて自問自答する。

資料館には、この他にも様々な資料が展示されているが、中でも、観る者の心を打つのは数枚
の写真である。特に印象に残るのは、「一人とり残され、お守りだけを胸に泥んこでへそをかく
少年」と「米軍兵士からミルクをもらう少女」の写真である。この2枚の写真を見ただけでも、
「理屈は要らない」、「絶対に戦争をしてはいけない」と心に誓う。

続いて、旧海軍の司令部が置かれた壕に入っていく。
壕が掘られた1944年当時は450mあったが、現在では300mが復元されているという。
壕入口から階段を20~30m降りていくと、薄暗い通路がどこまでも張り巡らされていて、
左右のところどころに部屋がある。通路も部屋も、すべて手掘りだという。
幕僚室だったとされる部屋の壁には無数の穴があるが、これは幕僚が手榴弾で自決した時の
破片の跡である。
見るに堪えないと思いつつ、「見なければ、ダメだ。この事実を見なければダメだ」との思い
で、暗い通路を歩き、1時間ほどで壕の外に出た。澄んだ青空を見上げ、空気の美味しさを
感じた。

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沖縄県立博物館・美術館は、文字通り博物館と美術館が一体となった施設である。
リーフレットの第一面に載っているキャッチコピーは、
  沖縄の歴史と文化の「城(グスク)」へ ——
である。

最寄駅から10分くらい歩くと、広い公園の向こうに、博物館・美術館の建物が
見えてきたが、その雄姿には驚くばかりだ。正に、「城(グスク)」である。
この建築物は、丘の中心にそびえる城(グスク)をイメージし、隣接する公園から
繋がる、なだらかな丘となるようにデザインしたもので、素材は白セメント、琉球
石灰岩、海砂(サンゴ)で、表面をラフに削り、風合いを出しているという。
https://okimu.jp/
http://www.ishimoto.co.jp/products/148/
https://www.iwata-aa.com/single-post/2011/09/20/沖縄県立博物館%EF%BD%A5美術館%EF%BC%8D%EF%BC%91?name=p6j4y8-nike-about

われわれが入場した時、エントランスホールでは、地元の演奏家グループの発表会
が行われていて、自慢の演奏を披露していた。50人分ほどの折り畳み椅子が用意
されていたが、2階の回廊や階段に腰を下ろして聴き入る市民も多く、総勢100人
近くが、クラシック音楽に聴き入っていた。
われわれも、思わぬところで、クラシックの生演奏に出会うことができ、久しぶりに
「文化の香り」に触れた想いで、最後の一曲まで聴いた。

常設展のテーマは、「海と島に生きる」で、展示数は3000点を超えるという。
沖縄の自然史、考古学、美術工芸、民俗学などに関連する様々な展示物を観ていると、
縄文・弥生の時代から現代に至る「沖縄」の姿に触れることができ、時間の経つのを
忘れてしまうほどである。
ここの展示物で最も注目すべきものは、「王国の繁栄」のコーナーに展示されている
「龍柱と万国津梁の鐘」である。これらは、戦前まで首里城の正殿にあった本物だと
いう。一定時間毎に、この鐘の音が館内に響き渡る。

クラシック・コンサートと博物館の見学に時間がかかり、今回は、美術館に足を運ぶ
余裕がなくなってしまったのが、残念である。

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雨の降る日は、観光地などを外回りするのは億劫になり、映画館に行くか、博物館などを巡る
ことになる。那覇市には映画館が幾つかあるものの、われわれの滞在中に上映されているもの
には観たいものがなかったので、博物館巡りをすることにし、先ず、那覇市歴史博物館に出掛
けた。
「博物館」というと、独立した建物で堂々と構えているものを想像するが、那覇市歴史博物館
は、沖縄県庁の向かい側にある複合商業ビルの4階の一角にある。
http://www.rekishi-archive.city.naha.okinawa.jp/

リーフレットには、次のように記されている。
   沖縄県はかつて琉球王国として独自の国家を形成していました。
   王国は中国との冊封・進貢関係の下で、日本の幕藩体制と関わりながら交易国家として
   アジアの海に雄飛した歴史があります。那覇市は王国の王都として政治や経済の中心地
   であり、様々な文化が行き交い、その結実として、中国や日本から強い影響を受けた独自
   の文化が育まれました。

那覇市歴史博物館の内部は、特別展示室、常設展示室、企画展示室の3つのゾーンに分かれている。
特別展示室には、国宝「琉球国王尚家関係資料」を中心に王国時代の美術工芸品や文書・記録類が
展示されている。
常設展示室では、「王朝文化と都市(まち)の歴史」をテーマに、市民から寄贈された染織品や漆器、
書面などの史料をとおして、近世・近代の首里・那覇の歴史と文化を紹介している。
企画展示室では、われわれが訪問した時は、「金武家資料展」が行われていて、歌三線の歌聖と呼ば
れた金武良仁と、彼の子供で、戦前戦後を通じて組踊研究と普及に努めた金武良章が所有していた
品々が展示されていた。

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