(旧)国際短波放送情報

海外からの日本語短波放送を中心に、メディア関連の様々な話題を紹介します

カテゴリ: ポーランド旅行記

イメージ 1

ポーランドの南部にある小さな町、カルヴァリア・ゼブジドフスカを訪ねた。
カトリック教徒の巡礼地の一つと言われている。
古都クラクフから約1時間のバスに乗る。路線バスであるが、20席ほどの
マイクロバスである。最初は平地を走っていたが、次第に小高い丘に向かって
坂道を上っていく感じになった。

カルヴァリア・ゼブジドフスカの町の入口と思われるところに、バス停があり
乗客は皆んな、ここで降りた。いま来た道を振り返ると、随分高いところまで
上ってきた感じがした。

バス停の掲示板には、町の概略図が掲げられていて、主な観光スポットを写真で
紹介しているのだが、われわれが目指す礼拝堂の写真が見えない。ローマ教皇
ヨハネ・パウロ2世が何度も訪れたという礼拝堂なのだが、ガイドブックに載って
いる写真と同じ写真が見つからない。

バス停の周りにはお店などもなく、誰かに道順を尋ねることもできず、困り切って
いると、坂道を下りてくる人々がいることに気がついた。この人たちは礼拝堂から
帰ってきた人たちだろうと思われた。ならば、われわれは、この坂道を上って行けば、
礼拝堂に辿り着くかもしれないと思われた。

10分ほど坂道を上って行くと、町の中心部と思われる三叉路に出て、小さな教会が
あった。その教会の内部を参観して表に出ると、老齢の男性2人が近付いてきたので、
ガイドブックに載っている礼拝堂の写真を示すと、「あっちだよ」と言う感じで指を差して
教えてくれた。

われわれが目指す礼拝堂の方向はわかったものの、それからが大変だった。
炎天下、石畳みの坂道を、ヨイショ!、ヨイショ!と言いながら、老体に鞭打って歩くこと30分。
途中で立ち止まって、振り返ると、素晴しい風景が見え、疲れも吹っ飛んでいく。
しかし、喉の渇きが、辛くなってきた。こんなに苦労すると思わなかったので、ペット
ボトルを持って来なかった。このままでは、熱中症になってしまうのではないか、こんな
ところで倒れてしまったら、大変だと不安になり始めたが、礼拝堂の近くには売店があり
水も買えるだろうことを祈って、再び坂道を歩き続けた。

しばらくすると、売店が見えてきた。
急いで、ペットボトルを買い、グイグイ水を飲んだ。本当に生き返った想いがする。
そして、斜め前方を見ると、われわれの目指していた礼拝堂が見えてきた。
長い道のりであった。

(「ポーランド旅行記」一覧)
https://blogs.yahoo.co.jp/swl_information/folder/1147858.html?m=l

イメージ 1

クラクフの旧市街の南の外れ、小高い丘の上に、歴代のポーランド王の居城として
知られるヴァヴェル城があり、ヴァヴェル大聖堂や旧王宮などを見学できる。

大聖堂は、何回も増改築を繰り返してきたので、さまざまな建築様式で構成されて
いる。外から見る黄金のドームは、特に美しい。

旧王宮の内部は博物館となっていて、ポーランド王の戴冠式に用いられた剣などの
宝物や武具が展示されているが、何しろ薄暗い館内では良く見えない。それゆえ、
最後に、最上階の窓から、新旧のクラクフの街並みを眺めると、外の明るさは、
世界が開けたように見えた。

(「ポーランド旅行記」一覧)
https://blogs.yahoo.co.jp/swl_information/folder/1147858.html?m=l

イメージ 1

「シンドラーの工場」から、ヴィスワ川に架かる橋を渡って、クラクフの町に
戻ろうと15分ほど歩くと、「カジミエシュ地区」と呼ばれる地域に入る。
ガイドブックには、次のように解説されている。
  カジミエシュ地区は、1335年にカジミエシュ大王の手でクラクフとは
  別の町として作られた。カジミエシュ大王は、当時迫害されていたユダヤ人
  の保護に熱心に取り組んだ王として知られ、彼の時代には多くのユダヤ人が
  クラクフに移り住み商工業の発展に寄与した。
  カジミエシュ地区は当初からユダヤ人街として作られたのではなかったが、
  15世紀以降、多くのユダヤ人が住むようになり、第2次世界大戦まで、
  ユダヤ人が大多数を占める地区として栄えた。
  今でもポーランド最古のユダヤ教の神殿、スタラ・シナゴーグ(ユダヤ博物館)、
  イザーク・シナゴーグなど多くのシナゴーグがある。
  映画「シンドラーのリスト」のロケ地としても有名である。

われわれは、この「スタラ・シナゴーグ」を見学したいと思ったが、この建物を
訪ねると、ドアには「本日は、夕刻7時から深夜1時まで開館」の貼り紙が出て
いて、中に入ることは出来なかった。
なぜ、夜間だけの開館になるのか、われわれは情報不足で知ることができず、
ここの見学は諦めた。

(「ポーランド旅行記」一覧)
https://blogs.yahoo.co.jp/swl_information/folder/1147858.html?m=l

イメージ 1

「シンドラーの工場」を見学して、路面電車の停留所に戻る途中、お腹が空いたので
何か食べようと思い、お店を探したが、気に入ったお店が見つからず、停留所に着いて
しまった。
周りを見渡すと、通りに面した角地に、ランチメニューをチョークで手書きした黒板が
掲げられている、小さなレストランがあったので、ここは地元の人々が利用するお店で、
美味しい料理が食べられるのではないかと思い、店内に入ってみた。

店内は、注文カウンターと4卓ほどのテーブルがあるだけだったが、良く見ると、奥の
方に大きな部屋があり、大賑わいであった。先客が立つのを待って、われわれもテーブル
に着いた。

いつものことで、メニューは読めないが、ポーランド語の英語に似た文字から類推して、
「本日のランチスペシャル」白身魚のフライにマッシュポテト添え、スープ、ジュースを
頼んだ。何れも、美味である。

ホテルに戻り、このレストランのホームページを見ようとすると、「ドメイン売出し中」
のコメントが現れて、アクセスできない。
https://jadlodajnia.com/

しかし、旅行情報サイトでレストラン名を検索することが出来た。
https://www.tripadvisor.jp/Restaurant_Review-g274772-d2297764-Reviews-Jadlodajnia_Wczoraj_i_Dzis-Krakow_Lesser_Poland_Province_Southern_Poland.html

(「ポーランド旅行記」一覧)
https://blogs.yahoo.co.jp/swl_information/folder/1147858.html?m=l

イメージ 1

映画「シンドラーのリスト」の舞台となった、シンドラーの工場を見学した。
第二次世界大戦で、ドイツによるユダヤ人の組織的大量虐殺(ホロコースト)が
東欧のドイツ占領地で進む中、ドイツ人実業家オスカー・シンドラーは、1000
人以上のポーランド系ユダヤ人を、自らが経営する軍需工場に必要な生産力だと
いう名目で働かせ、彼らが絶滅収容所に送られるのを阻止した。
その工場跡は、現在は博物館となっていて、常設展では、彼の足跡を紹介している
他、当時の人々の暮らしぶりなども再現されている。
常設展 "KRAKOW UNDER NAZI OCCUPATION 1939-1945" の特設サイトは次のとおり。
https://www.muzeumkrakowa.pl/exhibitions/krakow-under-nazi-occupation-1939-1945

1943年、ソ連の反撃が始まりポーランドに迫ると、ナチスはポーランドの強制
収容所を解体する方針を固め、ユダヤ人は絶滅収容所に送られて殺害されることに
なった。これを阻止するため、シンドラーはリストアップした約1200人の従業員
とともに、工場を自分の故郷であるチェコのブリンリッツに移転させた。

館内の展示物で、最も印象に残っているのは、一枚の写真であるが、ポーランドの
とある収容所で捕虜のユダヤ人が処刑されるのをドイツ兵が笑いながら眺めている
写真で、余りにも惨く、ブログで紹介するのは差し控える。
シンドラーのオフィスにあるデスクも印象に残る。彼は、ヨーロッパ全域の地図を
背にして、この机に向かい、リストを作り上げたのであろう。

(「ポーランド旅行記」一覧)
https://blogs.yahoo.co.jp/swl_information/folder/1147858.html?m=l

イメージ 1

中谷剛さんは、その著書「ホロコーストを次世代に伝える~アウシュヴィッツ・ミュージアム
のガイドとして~」(岩波ブックレット、2007年刊)の中で、アウシュヴィッツから奇跡的
に生還したカジミエシュ・スモレンさんについて、次のように紹介している。スモレンさんは、
アウシュヴィッツ博物館の館長として30年以上にわたり貢献した。
  アウシュヴィッツで習得したドイツ語を駆使して、スモレンさんはドイツの若者
  たちを案内してきた。彼らの見学姿勢は、加害者としての問題意識があるせいか、
  真剣そのものだ。しかし、"ドイツ人"としての罪を背負ってしまう若者には、
  「君たちに戦争の責任はない。でも、それを繰り返さない責任はある」と語りかける。
  被害者の一人としてのスモレンさんの、やきしくも厳しい口癖だ。これはドイツ人
  ばかりに向けられる言葉ではない。
  この責任をどのように果たしていけばよいのか。人類の大きな課題である。
  (中略)
  収容所から生還した戦後、大学の法学部を辛業したスモレンさんは、ポーランド人民
  共和国のドイツ犯罪究明クラクフ地方員会メンバーとして、アウシュヴィッツSS隊員
  の摘発に従事した。
  涙を流しながら話を聞く訪問者に、スモレンさんはこんなことも言う。「そんなに泣か
  ないでください。ここで起きたことに悲しみや痛みを感じることも必要ですが、どうして
  こんなことが起きてしまったのか、落ち着いて考えてみることも大切です。将来、こんな
  ことが二度と繰り返されないためにどうしたらよいのか? と」。

中谷さんは、今回、3時間余りのアウシュヴィッツ強制収容所のガイドを終わって、最後に
われわれ夫婦を含む20名ほどの訪問客に対して、概ね次のような趣旨のことを語り掛けた。
  私は、ガイド役であって、教え役ではない。案内をしながら、多くのことを学んでいる。
  皆さんは、歴史に対する関心が強く、その問題意識を持っているからこそ、遠く日本から、
  高い飛行機代を払って、時間を掛けてまで、ここを訪ねて来られた。ある意味では、非常
  に恵まれた環境にある方々だと思う。
  帰国したならば、ここアウシュヴィッツ強制収容所で見聞した歴史上の事実を、知人・友人
  にお話ししてほしい、そして、更に多くの日本の人たちが、アウシュヴィッツ強制収容所を
  訪ねて来られることを願っている。

国立アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館のホームページは次のとおり。
http://auschwitz.org/en/more/japanese/
http://auschwitz.org/gfx/auschwitz/userfiles/auschwitz/historia_terazniejszosc/auschwitz_historia_i_terazniejszosc_wer_japonska_2010.pdf

(「ポーランド旅行記」一覧)
https://blogs.yahoo.co.jp/swl_information/folder/1147858.html?m=l

イメージ 1

中谷剛さんは、アウシュヴィッツ博物館で、日本人としてはただ一人、博物館公式ガイド
として20年以上にわたって、この仕事に携わってきた人である。
ここ1~2年の間に、TBSラジオの番組の中で紹介された、中谷さんのガイド音声の中で、
次のような趣旨のことを話していたのが、特に印象に残る。

◆強制収容所は、アウシュヴィッツが最初ではなく、唯一のものでもなかった。
戦争が始まる前、1933年、最初はミュンヘン近郊にあった。
この時、ヒットラーという政治家が大統領の指名を受けて首相になった。
当時のドイツには「ワイマール憲法」という民主的な憲法があり、選挙制度があって、
当時も、国民が政治家を選んだ。
結果として、与党第一党の代表であるヒットラーが首相となったことで、「ドイツ政府
に反対する人こそ、社会のルールを、民意を破っている」というような言い方をして、
ドイツの社会主義思想、共産主義思想を持っている人を中心に収容するのが、収容所の
最初の役割だった。ユダヤ人を収容することは、最初の目的ではなかった。
われわれにとってアウシュヴィッツは何かといえば、われわれ国民が政治家を選んで
いるわけで、民主主義によって選ばれた政治家が強制収容所を作ったという点で、
一つのテーマが出来上がる。

◆民主的な社会と言うのは、案外、こういうことが起こり得るもので、所謂「真実」を
いう、学者として、真実をちゃんと述べられる人の言うことを、都合の悪いこととして、
社会が耳をふさいで聴かなくなってしまう、自分の持っているものを褒められて、根拠の
ないことに傾倒していく。
根拠のないことが、国民の選んだ政治家によって法律ができると、髪の毛の色とか目の色
とかによって、優秀さが測られることが進んで行く、これが民主主義の弱さなのです

◆ユダヤ人虐殺に至ったきっかけは何だったのか。
ユダヤ人から奪ったものは「数字」に変わっていく。もちろん、銀行預金も、おカネの単位も、
服でさえも、コート何万着、背広何万着、下着とパジャマが何万着・・・、と。
ユダヤ人から奪ったものを「数字」にし、その数字を報告書にして書いていたSSの隊員たち
が、戦争が終わった後、私たちは「報告しろ」と言われたから、命令に従って報告書を書いた
のだと、署名した人たちは弁解する。

命令した人は政策に基づいて、政策は勿論法律によって策定される。法律を作ったのは一部の
国民が選んだ政治家であると・・・。
こうなると、生真面目に、謂われたことをやれやれと・・・。
こうなると、どこに責任があるのか、見えなくなる。

だから、今まで、皆さんを案内した中に、ヒットラーの写真が一枚もない。
それは、ヒットラーが一人で始めたことではないからです。
では、誰がそれを始めたのかと言うことになる。

それは、一番最初に出てきた現象は、街角にでてくる。
つまり、「ユダヤ人は出ていけ」というヘイトスピーチだったのです。
それが、5年、10年、15年をかけて、ホロコーストに繋がってしまった。

私たちが、今、ヘイトスピーチが街角にあるとすれば、われわれとホロコーストの間の
どの辺に立っているのかと言うことを知るための、何か物差しが必要である。
それは、やはり、歴史を知ることであるというのが、ヨーロッパの人々の考えになって
くる。平たく言えば「人権」ということです。

TBSラジオで放送された、アウシュヴィッツ強制収容所に関する番組のアーカイブは、
当分の間、次のサイトで聴くことができる。何れの番組にも、中谷剛さんが出演している。
◆「耳で聴くアウシュヴィッツ強制収容所・見学ツアー」( 2017-10-20 放送 )
  https://www.tbsradio.jp/190855

◆「ホロコーストを日本人が語り伝える意味とは?」( 2018-01-31 放送 )
  https://www.tbsradio.jp/220789

国立アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館のホームページは次のとおり。
http://auschwitz.org/en/more/japanese/
http://auschwitz.org/gfx/auschwitz/userfiles/auschwitz/historia_terazniejszosc/auschwitz_historia_i_terazniejszosc_wer_japonska_2010.pdf

(「ポーランド旅行記」一覧)
https://blogs.yahoo.co.jp/swl_information/folder/1147858.html?m=l

イメージ 1

ビルケナウ収容所は広大な敷地を占めている。面積は約190ha、300棟以上のバラック
が並び、アウシュヴィッツよりも更に大規模な収容所であり、「大規模殺人工場」であった。
1941年に建設を開始、1945年にソ連軍によって解放されるまで、百数十万人の命が
奪われたという。ドイツ軍は、敗戦によって、ガス室などを破壊して逃げたので、今では、
その瓦礫が残っている。
上記写真は、ビルケナウ収容所「第3死体焼却場」のガス室と焼却場の跡である。

国立アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館のホームページは次のとおり。
http://auschwitz.org/en/more/japanese/
http://auschwitz.org/gfx/auschwitz/userfiles/auschwitz/historia_terazniejszosc/auschwitz_historia_i_terazniejszosc_wer_japonska_2010.pdf

(「ポーランド旅行記」一覧)
https://blogs.yahoo.co.jp/swl_information/folder/1147858.html?m=l

イメージ 1

ビルケナウ収容所には、ヨーロッパ各地からユダヤ人を運んできた「貨車」が、今も
残っている。

引き込み線の線路が途切れるあたりに、慰霊の碑が建っていて、その前で、イスラエル
からきた人たちであろうか、イスラエルの国旗をまとった人々が静かに合唱していた。
犠牲となった人々に捧げる追悼の歌声であろうか。否、ナチの大量虐殺に対する抗議の
怨みの歌声かも知れない。

国立アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館のホームページは次のとおり。
http://auschwitz.org/en/more/japanese/
http://auschwitz.org/gfx/auschwitz/userfiles/auschwitz/historia_terazniejszosc/auschwitz_historia_i_terazniejszosc_wer_japonska_2010.pdf

(「ポーランド旅行記」一覧)
https://blogs.yahoo.co.jp/swl_information/folder/1147858.html?m=l

イメージ 1

「死の門」の横には、1944年にドイツの武装親衛隊SSによって撮影された写真が
展示されている。英語の説明文には、次のように書かれている。
  Immediately after getting off the train, the Jews were ordered to line up into two
  columns, one of women and children and the other of men.
  Each column was subjected to "selections" by SS doctors and medical orderlies,
  there and then on the ramp:
  The strong and the healthy were separated from the old, the sick, and children.
  People selected as fit for work were sent to the camp. The others, usually 70 to
  75 per cent of a transport, were sent to be murdered in the gas chambers.

その惨い光景を思い浮かべ、人々の表情を見ると、言葉を失ってしまう。
連行されてきた人々は、貨車から降ろされると、直ぐに2列になるように命じられた。
男性の列と、女性と子供の列である。
SSの医師と医療班は、強健・健康そうに見える人のグループと、老人、病人、子ども
のグループに、彼らを「選別」した。前者は労働に適しているとして収容所に送られ、
後者(貨車で運ばれてきた人々の70~75%)は、ガス室に送られ殺害された。

国立アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館のホームページは次のとおり。
http://auschwitz.org/en/more/japanese/
http://auschwitz.org/gfx/auschwitz/userfiles/auschwitz/historia_terazniejszosc/auschwitz_historia_i_terazniejszosc_wer_japonska_2010.pdf

(「ポーランド旅行記」一覧)
https://blogs.yahoo.co.jp/swl_information/folder/1147858.html?m=l

↑このページのトップヘ