(旧)国際短波放送情報

海外からの日本語短波放送を中心に、メディア関連の様々な話題を紹介します

2012年07月

中国国際放送日本語部の花形アナウンサー・王小燕さんが,沖縄県で
日本人同士の結婚披露宴の司会を務めたという。
中国人の目を通して見た沖縄県独特の結婚式と披露宴の模様は,われ
われ他県に住む者にとっても興味深いもので,そのリポートは同局の
ウェブラジオ 『気ままに談談』 で聴くことが出来る。
高橋恵子さんと劉叡さんが,王さんにインタビューしている。
http://japanese.cri.cn/1041/2012/07/31/144s196334.htm

この話題については,その一部が短波放送の 『経済直行便』 (7月10日)
でも紹介された。
http://japanese.cri.cn/782/2012/07/10/142s195427.htm

偶然にも往路便と帰路便の飛行機で一緒になった中国人の家族連れが
王小燕アナに語った沖縄の旅の想い出話は,日本人にとってもほのぼの
とする,誇らしく,そして嬉しくなるエピソードである。

HCJB日本語放送は,尾崎一夫さんの 『ふるさと訪問日程2012』 を
発表した。8月18日 (土) に成田到着,10月20日 (土) まで滞在し,
各地の教会で礼拝を行なう他,リスナーの集いに出席して近況報告と
インタビューなどを行なう予定。
http://japanese.hcjb.org/SW_Schedule/2012Japan_Schedule.html

同放送のウェブサイトは次のとおり。
http://japanese.hcjb.org/

( 2012-08-03 訂正 )
本記事の掲載当初は,『共同新聞記者』 と記載しましたが,
正しくは 『京都新聞記者』 ですので,お詫びして訂正いたし
ます。

ラジオ放送では,『共同新聞記者』 と聴こえたので,不審に
思って,『共同通信記者』 ではないのかと放送局に問い合
わせたところ,本日返信があり,『京都新聞記者』 であると
教えていただいた。

お忙しい中,ご丁寧に返信をくださった 『ロシアの声』 日本
語課スタッフに御礼を申し上げます。
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( 当初掲載日 2012-07-31 )
『ロシアの声』 日本語放送は7月28日,『お便りスパシーバ』 の中で
京都新聞記者からの E-mail による質問を紹介し,次のような回答を放送
した。

 質問は 『1948年頃,日本語放送で,ラーゲリに収容されていた
 日本軍兵士の名前や情報を日本向けに放送したか』 ということ
 なんですけれども,リューダさんなどがいろいろ調べてくれたん
 ですけれども,それに対する答えから始めたいと思います。

 多くのリスナーの方がご存知のように,モスクワからの日本語放送
 は,1942年に開始されました。
 そして,1946年の末から 『モスクワ放送』 にハバロフスク支局から
 の放送が加わりました。その結果,放送時間は1日5時間にまで
 拡大されました。

 当時,放送は,日本の方が聴いていただけではありませんでした。
 例えば,1949年までは,極東シベリア,又,中央アジア,そして,
 モスクワ郊外のクラスノゴルスクのラーゲリに収容されていた大勢
 の日本軍兵士たちも聴いていました。

 これに関連して,日本語放送には,通常の放送の内容の他に,
 人道的な役割も含まれるようになりました。
 ソ連時代には,ラーゲリに収容されている兵士の身内の方などから,
 数千通のお便りが寄せられたということです。
 
 そのお便りの中では,収容されている方々の消息,健康状態,又,
 収容所の生活環境などに関する問い合わせが書かれていました。
 そして,日本語課は,放送に収容所からの情報やレポートを加え,
 収容されている方々の日常生活を報道するようになりました。

 そして,戦争終結から3年後,収容所には合唱や音楽,又,その他
 のサークルが出来,日本語放送では,その演奏が定期的に放送
 されるようになりました。収容所の兵士たちによる演奏のコンサート
 プログラムが放送されることもありました。

 これは,世界のラジオ放送の歴史の中でも,非常に珍しいものなの
 ではないでしょうか。
 なお,日本語放送の最初のアナウンサーたちも,ラーゲリに収容さ
 れていた人たちでした。

注 : 関連記事は,『ロシアの声』 のウェブサイトでも読むことが出来る。
   http://japanese.ruvr.ru/2012_03_14/68446284/

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中国国際放送日本語部のニュースレター 『かけはし』 2012年夏号が届いた。
トップページの巻頭言は,日本語部副部長の胡徳勝さんによる 『夏に負けない
情熱で頑張っていこう!』 である。

内容は,当然のことながら日中関係に関するものが多く,主なものは次のとおり
である。
 ・ 日本語アナウンス通訳コンテスト
 ・ 中国で生きる日本人
 ・ 中日韓ビジネスサミット取材日記
 ・ CRI 日本語サロン,北京で公開レッスン
 ・ 稲垣喬方さんの写真,CRI サイトで公開へ

中国国際放送のホームページは,次のとおり。
http://japanese.cri.cn/

ニュースレター 『かけはし』 の購読申し込み先は次のとおりで,受信報告を
送る際に添え書きすれば,次号から送ってくれる。
http://japanese.cri.cn/782/2008/11/30/1s131039.htm

台湾国際放送日本語課に,このほど女性アナウンサー・白田さん
が入局した。7月27日放送の 『お便りありがとう』 に出演して自己
紹介した。

彼女のプロフィールは次のとおり。
 ・ 姓名は,白田 (はくた) なおこ さんで,名の 『なおこ』 さんの
  漢字の書き方は不詳。
 ・ 誕生日は,中華民国建国の父・孫文と同じ,11月12日。
 ・ 7月から,幾つかの番組を担当している。
 ・ 初めて台湾を訪れたのは2002年で,大学4年生の時。
  台湾の国立政治大学で1年間の留学に入るも,新型肺炎
  SARS大流行のため,夢半ば,9ヵ月で帰国。
 ・ 大学卒業後は,民間会社の上海駐在員,日本での高校
  英語教員,上海万博の日本パビリオンのスタッフなどを
  経て,台湾に渡る。
 ・ 台湾に惹かれる理由は,台湾の人たちが大好きだから。
  台湾の人たち,タクシーの運転手さん,スーパーのレジの
  おばちゃん,食堂のおじさん,皆んな温かく,心が広い。

番組のパーソナリティを務める王淑卿・日本語課長と上野重樹
アナは,『白田さんを応援してくださいね』 とエールを贈った。

『ロシアの声』 日本語課に着任した和田達朗 (わだ・たつろう) アナウンサー
(兼) 翻訳員が最初に出演したのは7月24日の報道番組であったが,その後,
27日の 『モスクワ・ミュージック・マガジン』,28日の 『お便りスパシーバ』 にも
出演した。

そこで語られた,和田アナの素顔は ――
 ・ 1984年10月24日,埼玉県熊谷市生まれ。
 ・ 中学,高校では 『サッカー少年』 として過ごす。
 ・ 2003年4月に早稲田大学に入学,ロシア文学を専攻。
 ・ 早大時代には,ロシア文学をロシア語で話すという学生劇団に
  所属し,『罪と罰』 などの上演に関わったことが,ロシアに関心
  を持つことに繋がった。
 ・ 元アナの菅聡史さんの後輩に当たり,菅さんが 『ロシアの声』
  に推薦してくれた。
 ・ 高校の修学旅行で中国に行ったが,個人で外国に出たのは
  今回が初めてで,もちろんロシア訪問も初めてのこと。
 ・ 現在は,放送局職員専用のアパートに住む。

このように自己紹介した和田アナは,今後の抱負を次のように語った。
  当面の目標は,解り易く,はっきりと,正確にお話をすると言うこと
  に尽きます。
  そのことを前提にして,更に,一つの 『芸術』 とは言いませんが,
  ある種の 『表現』 として,詳細に,かつ面白く,出来れば良いなぁ
  と思っています。
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( 2011-07-25 掲載 )
『ロシアの声』 日本語課に和田達朗アナウンサーが仲間入りした。

7月24日21時からの番組で和田さんは,対ルーブル為替レートを
伝えた後,真野アナが 『それでは,和田アナが初めて読むニュース
をモスクワからお送りしたいと思います』 と紹介し,ニュースを読んだ。

ニュースに続く 『ラジオジャーナル 今日の話題』 でも,メリハリのある
アナウンスを聴かせてくれた。22時からの番組にも出演した。

この日,和田さんの詳細なプロフィールの紹介はなかったが,今週末
のお便り番組などで紹介されると思われるので,それを待ちたい。

( 当ブログ過去関連記事 )
http://blogs.yahoo.co.jp/swl_information/30917475.html

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中国国際放送日本語部から,暑中見舞いカードとバースデーカードを
いただいた。
ニュースレター 『かけはし』 と 『中日国交正常化40周年記念クイズ』
の問題と解答用紙も同封されている。

中国国際放送のウェブサイトは次のとおり。
http://japanese.cri.cn/

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東京都千代田区にある第一生命ビルの 『マッカーサー執務室』 が
一般公開されたので,7月中旬に見学した。
http://www.dai-ichi-life.co.jp/company/public/event/public_open.html

マッカーサーの施政については様々に評価されているが,歴史
の現場に足を踏み入れることには,ある種の感慨を覚える。

『マッカーサー』 と聴いて 『ラジオ』 を連想するとすれば,1947
年1月31日午後9時すぎに流れた,当時の全官公労委員長・
伊井弥四郎の緊急放送であろう。
翌日に予定していた所謂 『二・一ゼネスト』 が,マッカーサーの
指令により中止せざるを得なくなったことを,NHKのラジオ放送
を通じて,伊井は涙ながらに全国民に発表したのであった。

もちろん,私は生まれたばかりで,この放送を聴いていないが,
歴史に残る 『音源』 として,これまでに何度となく紹介されてきて
いる。

ロンドン五輪が始まった。テレビ中継も賑やかである。
永六輔さんは7月27日付け毎日新聞のコラム 『永六輔 その新世界』 で
次のように書いている。(一部抜粋)

  テレビの画面を見ていると,昔の海外放送のような間延びした会話や
  画面のずれが面白い。
  ラジオだけの時代には聞こえてくる声が遠くなったり,近くなったりして
  いかにも電波が地球を遠く回ってくるような気分だった。
  声帯模写のレパートリーにも必ずあった。
  テレビの画質も鮮やかな美しさを競っているのに,『ロンドンの〇〇さん』
  『…… ハイ聞こえますか,ロンドンの△△です』 『……聞こえます』
  ケイタイの時代に両方で 『聞こえますか』 と問い合せしているおかしさ。
  こうなるとテレビも古くなったものだと思ってしまう。

イラン IRIB 日本語放送は7月27日,同局のウェブサイト上で,
故・キム・ヨンイル (金英一) 画伯に対して弔意を表した。
http://japanese.irib.ir/programs/item/30609

お便り紹介のページの最後に掲載された弔文は,次のとおり。
  今月も日本短波クラブ様から会報誌が届きました。
  その7月号のページを繰って記事を拝見していたところ,
  その中の 『キム画伯を悼む』 という追悼記事に眼が留
  まりました。
  キム画伯,キム・ヨンイルさんは,私たちラジオ日本語
  にも,開局記念日やお正月など,折に触れて作品を
  送って下さった古くからのリスナーのお一人です。
  4月に亡くなられていたとは存じませんでした。
  キム・ヨンイルさんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

※ キム画伯は,日本短波クラブが発行する会報の毎年の
  新年号の表紙を飾る干支をデザインし,記念イベントなど
  の特別ベリカードをデザインするなど,同クラブの活動に
  貢献した。

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