(旧)国際短波放送情報

海外からの日本語短波放送を中心に、メディア関連の様々な話題を紹介します

カテゴリ: オランダ旅行記

イメージ 1

旅の想い出は、写真であり、美術館のチケットであり、飛行機や鉄道のチケットである。
そして、スーパーマーケットで買ってきた、おみやげである。
これらのおみやげを食べ終わった頃、次の旅に出たい想いに駆られる。
体力と気力が続く限り、それを繰り返すだろう。

(下段の写真)
マグカップ : チューリップ公園で買ったもので、花の色合いが気に入っている。
ジャムセット : 5種類のジャム、12カップが入っている。大変美味しい。
ヌガー : ピーナッツとフルーツ入りヌガーで、甘さもほどほど、上品な味がする。
ココア : 普通のホットチョコレート粉末で、日本に比べてかなり割安。

(上段の写真)
ビスケット : ハチミツを挟んだビスケットが12枚、缶に入っている。缶のデザインが最高。
チョコレート : 3センチ四方のチョコが3段×8=24包入っている。味はまずまず。
メモ用紙 : 5センチ四方のもので、4色200枚セット。

( オランダ旅行記 一覧 )
https://blogs.yahoo.co.jp/swl_information/folder/1142583.html?m=l

イメージ 1

香港国際空港で、羽田行きの便の搭乗が始まった。
われわれの座席は最後尾なので、一番早いグループに入って、搭乗できた。
飛行機の入口付近には、様々な新聞が置いてあって、自由にもらうことができる。
日本の新聞があることを期待したが、香港の現地紙だけである。
その中から、「星島日報」 と 「South China Morning Post」 をもらって、機内に入った。
「星島日報」を見て、ビックリ。
第1面と最終面の全面を使って、英王室のヘンリー王子と米女優メーガン・マークルさんの
結婚式の様子が大きく載っている。紙質も良いので、写真は鮮明である。
帰国便が遅延することなく、予定通りに飛んでいれば、この日の新聞を見ることは出来なかった。
機体トラブルで一日遅れたため、この記念すべき新聞を手にすることが出来た。

香港から約4時間半。
キャセイパシフィック航空548便は、無事に羽田国際空港に着陸した。
今回の旅は、帰国便の運行がキャンセルされるというトラブルに遭い、われわれ夫婦にとっては、
想い出深い旅となった。
                                        (了)
( オランダ旅行記 一覧 )
https://blogs.yahoo.co.jp/swl_information/folder/1142583.html?m=l

イメージ 1

帰国の便は、22時間遅れで、アムステルダム国際空港を出発する。
われわれが乗る便の乗客は、臨時の窓口でチェックインをすることになり、大混雑となって
いる。しかし、皆んな、整然と、しかし、悠然と、自分の順番が来るのを待っている。

われわれより少し若いかなと思われる夫婦が、「オランダは初めての旅行か」とか「何が一番
美味しかったか」などと話しかけてきた。「一日遅れとなって、大変だったでしょ」などと
言いながらいろいろ尋ねると、この夫婦は、われわれと同じリタイヤ組で、アムステルダムの
北にある小さな町に住んでいて、これから香港経由で大阪に入り、北海道を旅行する予定で、
3週間の日本旅行だという。

22時間遅れで、午前11時に出発する予定となっていた飛行機は、乗客は皆んな着席している
のに、仲々動かない。また、トラブル発生かと、嫌な予感もしたが、結局、正午に23時間遅れで、
香港に向けて飛び立った。

約10時間の飛行を終え、早朝の香港国際空港に着陸。
3時間ほど待って、羽田行きの便に乗り換える。
搭乗口付近には、われわれのような乗り継ぎ客への配慮であろうか、マッサージ機能付きで
フラットになる椅子が5台ほど置いてあるので、そこで横になり、iPadで日本のニュース
サイトを検索して、時間を潰した。

1時間ほどすると、東の空に太陽が昇り始めた。
香港の空港で、こんなにきれいな日の出を見ることができるとは、想像していなかった。
旅の疲れも忘れてしまうような、清々しい日の出である。

( オランダ旅行記 一覧 )
https://blogs.yahoo.co.jp/swl_information/folder/1142583.html?m=l

イメージ 1

帰国の便の出発が一日遅れとなり、一晩仮泊することになった。
航空会社提供のホテルに着いたのは、夜の10時頃だった。
夜間なので良くわからないが、飛行機の200人を超える乗客を受け入れることができる
ホテルだから、かなり大きいホテルと思われた。

ロビーには、われわれ搭乗客に向けた案内が貼り出されていた。
夕食と朝食の時間と場所、ホテルから空港行きの出発時刻が書いてある。
"Cathay Pacific Stranded Flight" と書いてある。"strand" という単語を初めて知ったが、
辞書によると 「立ち往生する」 と言うような意味のようだ。

チェックインを済ませて、夕食の会場に行く。
満席だったので、われわれは、若いカップルにお願いして、相席にさせてもらった。
食事はビュッフェ方式で、ビールは最初の一杯は無料、二杯目以降は有料だという。

一つ向こうのテーブルに小さい子供連れの夫婦が座っていたが、われわれと相席だった
カップルが食事が済んで席を立つと、その子供が頻りにわれわれに関心を示しているのが
見えた。
どこの国から来たのか尋ねると、インドから来たという。そして、その夫婦は東京大学の
農学系の大学院博士課程に在学していて、われわれの住む町の隣町に住んでいるという。
われわれの町のことも、良く知っているようで、子供は地元の保育園に行っているので、
親よりも日本語が上手いと言って、ほほ笑んでいる。なるほど、この子は、近くで日本人の
老夫婦が日本語で話しているので、気になって、しょうがなかったのだろうと思われた。

アムステルダムのホテルはシャワーだけだったが、この仮泊ホテルには深いバスタブがある。
出発の遅延は残念だが、思わぬところで、ゆっくりと湯船に浸ることが出来た。

翌朝は、5時起床。
カーテンを開け、窓から外を見ると、緑の木々が爽やかで、小鳥の鳴き声も聞こえてくる。
6時から朝食。7時15分、ホテルを出発する。

( オランダ旅行記 一覧 )
https://blogs.yahoo.co.jp/swl_information/folder/1142583.html?m=l

イメージ 1

帰国便の出発時刻13時10分から5時間以上も待たされて、揚げ句の果てに、ホテルに
一泊して、翌朝、11時に出発することになった。
機外に出て、スーツケースを返してもらい、数時間前に出国手続きをしたばかりなのに、
再び入国手続きをし、航空会社が用意したバスに乗って、ホテルに向かうことになった。
そう言った全体像は、機長のアナウンスで解っていたが、具体的なことは全く聞き取れて
いないので、同じ便の乗客の後ろについて歩き出した。ところが、彼らも足早に歩くので、
見失ってしまった。

入国手続きのラインに並んでいると、彼も同じ便に乗っていたなぁと思われる青年の姿が、
隣りのラインに見えたので、「香港行きの便に乗っていた方ですか?」 と尋ねると、「そうだ」
と言う。
「荷物を受けとるコンベアの番号、バスに乗る場所、ホテルの名前を教えてほしい」 と
頼むと、彼はスマホを取り出して、見せてくれた。航空会社のサイトで遅延トラブルの対応に
ついて告知されている。その情報を書きとった。本当に助かった。そして、スマホの必要性を
改めて知るところとなった。

入国手続きの順番を待っていると、われわれの後ろに並んでいる女性が 「本当に参ったなあ」
と日本語で独り言を言っているのが聞こえた。「日本の方ですか」 と尋ねると、「中国です」 と
いう。日本語の上手い彼女は、大阪でビジネスをしているので、香港経由で関西国際空港に飛ぶ
のだという。彼女も、この日のトラブルに関する、全ての情報を把握している模様だったので、
われわれを一緒に連れて行ってくれるように頼んだ。
正に、「旅は道連れ、世は情け」 である。

再び入国のスタンプを押してもらい、スーツケースを返してもらうため、コンベアのラインに
並んで待っていると、連れ合いが 「旅行日記のノートを、座席前のポケットに忘れてきた」 と
いう。
急いで、搭乗していた機体に戻ったが、ドアが締められて、係員の姿も見えず、機内に入ることは
出来ない。「遺失物案内」のデスクを探そうと思い、一旦、コンベアのところに戻った。

幸い、その近くに、航空会社の案内デスクがあり、年配の男性スタッフと2人の若い女性スタッフが
座っていたので、座席番号と事情を話すと、男性スタッフが、われわれが飛ぼうとしていた飛行機の
機内を清掃しているスタッフに電話を掛けてくれた。
彼が、座席番号を伝えると、清掃スタッフは直ぐに確認してくれて、「青色の小さいノートか?」 と
問い返してきたようだ。彼は私に 「青色の小さいノートか?」 と言うので、「そうです!」 と答え
ると、「見つかった。直ぐ、持ってきてくれるから、ここで待っていなさい」 と、悲しみ、慌てている
われわれ夫婦を諭すように、慰めてくれた。

こんな遣り取りをしている間に、降ろされた乗客たちは、皆んなスーツケースを受けとり、ホテル行き
のバス停に行ってしまい、われわれ夫婦と、一緒に連れて行ってくれるよう頼んだ中国人の女性客だけ
が取り残されてしまった。
彼女に申し訳ないので、ホテル行きのバス停は 「17番」 であることを確認し、ホテルの名前を念押し
して、彼女には先に行ってもらうことにした。

30分ほどして、ようやく、遺失物担当のスタッフがやって来た。
彼女が持っている段ボール箱は、様々な遺失物でいっぱいである。こんなに忘れ物が多いのかと驚く。
一番上に、わが連れ合いの「旅行日記」 のノートが載っている。
われわれが大きく息を吐いて、ホッとした表情をすると、航空会社のスタッフは皆んな、「良かったね」
と言って、ほほ笑んだ。彼らに何回も礼を言って、その場を離れた。

スーツケースを引いて、小走りに、「17番」のバス停を目指したが、これが、また、外国の特徴と言うか、
われわれの常識を超える。15、16、17、18と続くものと思いきや、17だけが、とんでもない外れ
のところにあった。
何人かの人たちに尋ねながら、ようやく「17番」のバス停にたどり着いたが、ホテル行きのチャーター
バスが遅れているようで、多くの乗客が、夕刻の冷え込みが強くなってくる中、待ちくたびれていた。
われわれもすっかり疲れたが、これでバスに乗って、ホテルに行くことができ。一安心である。

( オランダ旅行記 一覧 )
https://blogs.yahoo.co.jp/swl_information/folder/1142583.html?m=l

イメージ 1

帰国便の出発時刻は13時10分であるが、万一のことを考えて、9時半過ぎに
ホテルをチェックアウトし、電車でスキポール国際空港に到着したのは10時半
だった。
前の晩、ホテルの受付デスクで印刷してもらった搭乗券を見せると、航空会社の
スタッフがスーツケースを預ける区域に案内する。スーツケースを自分で重量計
の台に載せ、搭乗券のQRコードをスキャンさせると、荷物のタッグと控のカード
が自動的に出てくる。便利なモノである。

パスポートに出国スタンプを押してもらい、搭乗待合エリアに進む。
予定通り、12時30分に搭乗が始まった。
ところが、出発時刻の13時10分になっても、機体は全く動かない。
間もなく、機長が 「ただ今、技術的問題が発生して、米国ボーイング社の技術
スタッフと検討しているので、少し待ってほしい」 とアナウンスした。

その後も、何回か同様のアナウンスが繰り返されたが、15時30分になり、
「出発の見込みが立たないので、取り敢えず、お席でランチを食べていただき
ます」 と、機長がアナウンスした。

ランチとワインで、ほろ酔い気分になっていると、16時30分に、「申し訳
ありませんが、一旦機外に出ていただきます。ロビーでお待ち願います」 との
アナウンスが流れた。乗客は 「ダメかぁ~」 という表情で、しかし、静かに
ロビーに戻った。

香港行きの便なので、香港で降りる乗客は悠然と構えているが、われわれは香港で
乗り継いで、東京に飛ぶ予定なので、連絡便に乗れないことになり、困ってしまった。
係のスタッフに尋ねても、「香港のスタッフが対応してくれるから心配するな」 の
一点張りである。

ロビーから外を見ると、機体の前輪付近で、技術作業員が数人で、忙しく動き回って
いるのが見て取れる。

ロビーで待つこと、2時間。
18時30分になり、再び搭乗開始。
席に着いて、今度こそ離陸することを祈ったが、19時になって、驚きのアナウンスが
流れた。「この便は、きょうは出発することが出来ません。明朝、11時に出発すること
になりました。乗客の皆さんには、ホテルで一泊していただきます。ご迷惑をおかけして、
申し訳ありません」 という、機長のアナウンスである。
ホテルの名前や、ホテルへの移動方法もアナウンスされた模様だが、全く聞き取れない
まま、取り敢えず、ロビーに出た。

( オランダ旅行記 一覧 )
https://blogs.yahoo.co.jp/swl_information/folder/1142583.html?m=l

イメージ 1

アムステルダムを離れる前夜、帰国便のオンラインチェックインをして、搭乗券を確保した。
ところが、プリンターを持っていないので印刷することができず、スマホは十分に使いこなせず、
搭乗券をファイルすることができない。ホテルのビジネスセンターには、パソコンは2台設置
されているが、プリンターは備えられていない。
搭乗当日、航空会社のカウンターで 「昨夜、オンラインチュックインを済ませたけれども、印刷
に失敗した」 と言えば、何とかしてくれるだろうと思ったが、ここは 「ダメ元」 で、ホテルの
受付スタッフに頼み込んでみることにした。

搭乗券のPDFデータをUSBステックに取り込んで、ホテルの受付に持って行き、「ここに搭乗券の
データが入っているので、印刷してほしい」 と頼んむと、「それはダメ。しかし、添付ファイルに
して、ホテルの専用メールアドレス宛に送れば、無料でプリントしてあげますよ」 と教えてくれた。
USBステックはウィルス感染していることが心配で、預からないのだろうと思われた。

なるほど、上手い方法があったものだと思った。
これで、出発カウンターの混雑に巻き込まれることがなくなり、助かった。
しかし、「後悔先に立たず」 で、残念な想いも過ぎる。
今にして思えば、例えば 「アンネ・フランクの家」 など、様々な博物館や美術館などの観光施設で
必要とされたオンライン予約も、この方法でホテルに頼めば、チケットを印刷してもらえたわけだ。

( オランダ旅行記 一覧 )
https://blogs.yahoo.co.jp/swl_information/folder/1142583.html?m=l

イメージ 1


ハーグの町には、「ビネンホフ (Binnenhof)」 と呼ばれる区域がある。
オランダの政治の発祥の地である。
元々、この辺りで貴族による政治談議が行われていたようで、13世紀から17世紀に
かけて建てられた由緒ある建物が集まっていて、オランダの国会議事堂も、この区域に
ある。

ビネンホフの一角に、オランダで最も美しい建物の一つと言われる、マウリッツハイス
美術館がある。
左下の写真、中央のベージュ色の建物がマウリッツハイス美術館、その右が国会議事堂、
左がハーグ歴史博物館である。
この写真は、路面電車から降りたところ、深紅のバラが咲き誇る歩道から写したもので
あるが、歴史を感じさせる建物のバックに近代的な高層ビルが見えるという、その素晴ら
しい対比に、あっと驚く風景であった。右下の写真は、マウリッツハイス美術館を、正面
に回って撮ったものである。

マウリッツハイス美術館は、17世紀に、ブラジル総督オラニエ家のヨーハン・マウリッツ
伯爵の私邸として建てられた、ルネッサンス風の建物である。
正面に回ると、その壮麗さに驚く。鉄格子の正門を入ると、正面の入口は、普段は閉まって
いるらしく、一般観光客は、左手にある総ガラス張りの入口から入館する。
エレベーターで地下1階のロビーに降りれば楽だが、階段を使って降りていくと、珍しい
光景を目にすることができる。美術館の建物は運河と隣り合わせで建っているので、階段
の側壁の防水強化ガラス窓から運河の水面を、直に見ることができる。

地下1階のチケット売り場で 「年間パス」 を提示して、無料の入館券をもらい、音声
ガイド機器を借りて、地上階の展示室に入る。
マウリッツハイス美術館には、フェルメールやレンブラントなど、17世紀のオランダの
珠玉の名品が所蔵されている。特に、フェルメールの作品、中でも 「真珠の耳飾りの少女」
(写真:上左) を観たくて訪れる人が多いという。確かに、この絵の前は、大勢の観客で
埋まっていて、身動きができないほどである。
この絵も、また、中学・高校の歴史か美術の教科書に載っていた絵で、自分の人生で、
その実物に会えるとは思ってもいなかったので、感慨も一入である。
この他、レンブラントの「自画像」(写真:上中)や「テュルプ博士の解剖学講義」
(写真:上右) なども印象に残る名品である。

マウリッツハイス美術館のホームページは次のとおり。
https://www.mauritshuis.nl/nl-nl/

( オランダ旅行記 一覧 )
https://blogs.yahoo.co.jp/swl_information/folder/1142583.html?m=l

イメージ 1

いつ頃からの記憶であろうか、NHKなど国内の放送だけでなく、海外からの短波放送
でも、「オランダのハーグにある国際司法裁判所は、・・・」で始まるニュースは、随分
小さい時から何回も耳にしてきたように思う。今回、その国際司法裁判所を訪ねた。

「ハーグ」 は、オランダでは 「デン・ハーグ」 と言うのだそうだ。恥ずかしながら、
今回の旅行で、そのことを初めて知った。ガイドブックには、次のように記されている。
  日本語ではハーグ、英語ではザ・ヘイグ The Hague だが、正式にはグラーフェン
  ハーゲ Gravenhage と呼ばれ、その意味は「伯爵の生垣」。13世紀にホラント
  伯爵がこの地に狩猟の館を建てたことに由来している。オランダでは、一般的に
  デン・ハーグ Den Haag と呼ばれている。

デン・ハーグ中央駅の観光案内所で、バスと路面電車の一日共通券を購入した。
近くにいる女性スタッフに国際司法裁判所への行き方を尋ねると、「地上2階にあるバスの
発着場で24番のバスに乗りなさい」 と教えてくれた。
エスカレーターで2階に上がり、24番のバス停で待っていると、数分してバスがやって
来たので、念のため運転手に 「国際司法裁判所に行きたいのですが」と尋ねると、「隣の
バスに乗りなさい」 と教えてくれた。ふと見ると、隣りのバスも24番である。言われた
とおりに、そのバスに乗った。

後で、ガッテンしたのだが、帰りのバスも、この発着所に着き、中央駅が終点だと思ったら、
車内表示は駅の次の停留所名を示しており、中央駅はバス運行の始点・終点ではなく、上り
下り各線の、途中の一つの通過地点に過ぎなかったのだ。
同じ24番でも、上りと下りがあり、それぞれに行き先が表示されていたのだろうが、言葉が
わからないため読めず、迷ってしまったようだ。

国際司法裁判所の建物は、裁判所と言うよりは、古い宮殿の趣きである。(写真:左下)
ガイドブックでは、次のように解説されている。
  この建物は 「平和宮」 と呼ばれていて、この中に国際司法裁判所が置かれている。
  平和宮は、1913年に 「世界平和」 という理念に基づき、世界各国からの寄付で建設
  された。建設費の大部分は、アメリカの鉄鋼王カーネギーが、土地はオランダ政府、大きな
  時計はスイス政府、日本も美しい西陣織のタペストリーを寄付した。1階に国際司法裁判所が
  置かれ、2階には大広間がある。

国際司法裁判所の見学は、ガイドツアーに限られていて、それも特定の日だけに実施されている
ので、オンラインで申込みしなければならない。今回は本当に訪問できるかどうかはっきりせず、
オンラインでの申し込みをしなかったので、裁判所の内部は見学できない。
それでも、正門の横にあるビジターセンターではパネルや音声ガイドを使って、国際司法裁判所の
概要について説明されていて、売店では記念品を買うこともできる。

パネルでは、国際司法裁判所の歴史とともに、各国の元首や首脳が訪れた月日を写真入りで紹介
しているほか、裁判官の紹介などもしていて、第22代国際司法裁判所所長を務めた小和田恆さん
の写真なども見られる。

国際司法裁判所 (平和宮) の前には、芝生が広がっていて、芝生の周りを御影石が囲んでいる。
その石には、各国の言語で 「平和」 の文字が彫られている。
一番最初に 「和平」 の文字を見つけた (写真:下中)。昔の日本では右横書きだったから、
その知識を持っている外国人が 「平和」 を右から書いたのではないかと思った。
すると、連れ合いが 「まさか、そんなことはないでしょ。ちゃんと、左から 『平和』 と書いて
ある石があると思うよ」 と言う。二人で、芝生の囲い石を見て回ると、左横書きの 「平和」 を
見つけた。(写真:下右) これが日本語である。
ならば、最初に見つけた 「和平」 は、どこの国の言葉で 「平和」 を意味しているのであろうか。
「平和」 を Google 自動翻訳にかけると、中国語の繁体字と簡体字の両方で、「和平」 と出た。

国際司法裁判所関連のサイトは次のとおり。
http://www.unic.or.jp/info/un/un_organization/icj/
http://www.unic.or.jp/info/un/un_organization/icj/faq/

( オランダ旅行記 一覧 )
https://blogs.yahoo.co.jp/swl_information/folder/1142583.html?m=l

イメージ 1

ライデン大学に隣接して、日本博物館シーボルトハウスがある。
シーボルトハウスは、1578年に建設された由緒ある建物である。

玄関ホールには、建物の階毎の案内図が掲示されている。
案内図の一番下には日本語で、日本の国立6大学 (千葉大学、新潟大学、金沢大学、
岡山大学、長崎大学、熊本大学) は2016年に、シーボルトハウスに国立六大学
欧州事務所を設置したことが書かれている。

受付のデスクに行くと、「オハヨウゴザイマス」 と女性スタッフが、きれいな日本語で
迎えてくれた。「年間パス」 を提示して、入館券をもらい、音声ガイドの機器を借りて、
視聴覚室に進む。
視聴覚室では、シーボルトの生涯を紹介するDVDが放映され、日本語のテロップが
流れる。15分ほどのDVDを視終わり、続いて展示室に進むと、シーボルトが収集
した膨大な数の日本関連資料を観ることができる。

シーボルトハウスのリーフレットには、「19世紀日本のタイムカプセル」 という副題が
付いていて、次のように解説されている。
  日本博物館シーボルトハウスは、ライデンの運河沿いにあります。
  この歴史ある家には、1578年以来、ライデンの名士が住んできました。増築に増築を
  重ね、建物はそのたびに美しさを増してゆきました。
  例えば、建物の裏壁は17世紀のルネッサンス様式、正面ファサードは18世紀のバロック
  様式です。シーボルトはこの家に1832年から住み、日本から持ち帰ったコレクションを
  公開しました。
  それから150年の後、シーボルドの住んだ家はシーボルドハウスとして蘇り、収集品の
  一部とともに一般公開されています。
  (中略)
  日本博物館シーボルトハウスでは、浮世絵・漆器・陶磁器・化石・動植物標本・古銭・
  衣装・古地図など、珍品逸品をこ紹介しています。
  これらは、長崎出島の和蘭商館医官、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが
  収集したものです。
  フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796一1866) は1823年、
  オランダ政府によって出島に送り出されました。医官としての派遣でしたが、「可能な
  限り日本についての情報を集めよ」 との特命つきでした。
  オランダ人は出島を出ることは許されませんでしたが、医者のシーボルトは往診時など
  に出島を出る機会がありました。診察料を取らなかったので、患者は感謝の気持ちを
  贈物に託しました。この種のやり取りが、シーボルトのコレクションの始まりとなり
  ました。

日本博物館シーボルトハウスのホームページは次のとおり。
http://www.sieboldhuis.org/

( オランダ旅行記 一覧 )
https://blogs.yahoo.co.jp/swl_information/folder/1142583.html?m=l

↑このページのトップヘ